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ぼんくらオヤジが主に読書で気になった箇所を抜き書きしてアップします。趣味は多岐に渡りますが、カトリック信者なのでそっちの関係が多くなるかもしれません。時折エッセイも織り交ぜることが出来ればと思っています。
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ジャン=リュック・ゴダール『女と男のいる舗道 (1962)』より ナナと哲学者の会話

2010/04/05 00:53
11. シャトレ広場 - 見知らぬ男 - ナナは知識をもたずに哲学する
11. place du Châtelet - l'inconnu - Nana fait de la philosophie sans le savoir

※ 出演の哲学者は本当の哲学者ブリス・パラン(Brice Parain, 1897-1971)
※ ナナは(N)、哲学者は(P)と表記


N: なぜ読書するの?
P: 仕事さ。
N: 変ね。何言ってんのかしら。突然こうなるの。何か言おうと言う前によく考えているうちに、いざとなるともう何も言えなくなるの。
P: そんなものさ。「三銃士」は読んだかね?
N: 映画は見たけど、なぜ?
P: つまり…ポルトスという人物が…、これは「二十年後」の話なのだが、太った大男が出てくるだろ。彼は一度も考えたことがない。ある時、地下に爆薬を仕掛けることになった。そして導火線に火をつけ、逃げた。その時、突然、考えた。何を考えたか? なぜ右足と左足が交互に前に出るのかと。そう考えた途端に、急に足が動かなくなった。爆発が起こり、地下が崩れた。彼は強い肩で必死に支えたが、1日か2日後には押しつぶされて死んでしまう。考えたために死ぬんだ。
N: 私になぜ、そんな話を?
P: ただ話をするためだよ。
N: でも、なぜ話をするの? 何も言わずに生きるべきよ。話しても無意味だわ。
P: 本当にそうかね?
N: 分からない。
P: 人は話さないで生きられるだろうか。
N: そうできたらいいのに。
P: いいだろうね。そうできたらね。言葉は愛と同じだ。それ無しには生きられない。
N: なぜ? 言葉は意味を伝えるものなのに。人間を裏切るから?
P: 人間も言葉を裏切る。書くようには話せないから。だがプラトンの言葉も私たちは理解できる。それだけでも素晴らしいことだ。2500年前にギリシャ語で書かれたのに。誰もその時代の言葉は正確には知らない。でも何かが通じ合う。表現は大事なことだ。必要なのだ。
N: なぜ表現するの? 理解し合うため?
P: 考えるためさ。考えるために話をする。それしかない。言葉で考えを伝えるのが人間だ。
N: 難しいことなのね。人生はもっと簡単なはずよ。「三銃士」の話はとても美しいけど、恐ろしい。
P: 恐ろしいが意味がある。つまり…人生をあきらめた方が上手く話せるのだ。人生の代償…
N: 命がけなのね。
P: 話すことは、もうひとつの人生だ。別の生き方だ。分かるかね。話すことは、話さずにいる人生の死を意味する。うまく説明できたかな。話すためには、一種の苦行が必要なんだ。人生を利害なしに生きること。
N: でも、毎日の生活には無理よ。つまり、その…
P: 利害なしに。だから人間は揺れる。沈黙と言葉の間を。それが人生の運動そのものだ。日常生活から別の人生への飛翔。思考の人生、高度の人生というか、日常的な無意味の人生を抹殺することだ。
N: 考えることと話すことは同じ?
P: そうだと思う。プラトンも言っている。昔からの考えだ。しかし思考と言葉を区別することはできない。意識を分析しても、思考の瞬間を言葉でとらえられるだけだ。
N: 嘘をつきやすいこと?
P: 嘘も思考を深めるひとつの手段だ。誤りと嘘の間に大きな差はない。もちろん日常的な嘘は別だよ。5時に来ると言って来ないのはトリックだ。微妙な嘘というのは、ほとんど誤りに近い。何かを言おうとして言葉が見つからない。さっき君が言ってたことがそうだね。言葉が見つからないことへの恐怖。
N: 言葉に自信が持てる?
P: 持つべきだ。努力して持つべきだ。正しい言葉を見つけること。つまり何も傷つけない言葉を見つけるべきだ。傷つけない…、殺さない…。
N: つまり誠実であることね。ある人が言ってたわ。"真実は誤りの中にもある"って。
P: その通り。それがフランスでは理解されなかったことだ。17世紀には、人は誤りを避けることができると信じた者もいたが…、不可能なことだ。なぜカントやヘーゲルなどのドイツ哲学が生まれたか。誤りを通じて真実に到達させるためだ。
N: 愛については?
P: 大事なことは正しい思考と判断の原理。ライプニッツの充足理由律、永久真理に対する事実真理、日常的人生、そういった考えがドイツ哲学で発展した。
事実は矛盾も可能な世界として認識されうる。本当だよ。
N: 愛は唯一の真実?
P: 愛は常に真実であるべきだ。愛するものをすぐ認識できるか。20歳で愛の識別ができるか。できないものだ。経験から"これが好きだ"と言う。あいまいで雑多な概念だ。純粋な愛を理解するには成熟が必要だ。探求が必要だ。人生の真実だよ。だから愛は解決になる。真実であれば。



■ジャン=リュック・ゴダール『女と男のいる舗道』 上記の会話シーン■



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福岡カルメル会編訳『沈黙を聴く ― 現代の神秘家モーリス・ズンデルの人と霊性』(女子パウロ会)より

2009/12/25 18:07
 年を取るにつれて、悪の問題はますます深刻になってくる。体質の衰えとともにあらゆる衰えが現れ始め、神の摂理に対する嘆きや不満が募ってくる。この問題への解答を求めずにはいられなくなるであろう。神は決して人間の苦しみを望まれない。苦しみと死は神の望みに反して、罪によってこの世界に入ってきたものだ。
 パスカルは「人間条件のもつれの源は原罪のうちにある」と言っている。美しい理想を掲げながら無意識のうちに陥っている堕落ほど、人間に要求されている自己実現の裏側だと言えるものはないのではあるまいか。人間が、自分かたどり着くのに失敗した価値を荒々しく踏みにじるのはそのためであろう。
 神はこの世界、涙と血の世界、生命の状態が死につながる世界を造った方ではない。罪は神にあるのではない。死の責任は神にはない。苦しみの責任は神にはない。悪の責任は神にはない。この、神の無実の叫びは聖書全体をとおして響き渡っている。
 私たちが人類の本性にのみ従って生きており、まれにしか真実の人間ではなく、ほとんどいつも自分たちのうちで働く宇宙の生物学的・物理科学的な力によって動かされ運ばれているのと同様に、宇宙も人間にとっての働きの場となっている。宇宙はそれを知っている。そして聖パウロもそれを告げている。宇宙は産みの苦しみの中にいるのだ。人間によって空しさに服させられている被造界全体は、産みの苦しみにうめきながら神の御子の現れを待っているのである。
 神の愛は決して変わらず、つねに、そして永遠に無限である。しかし、その愛は人間の状態に従った色合いを持つのである。だから、神のうちには苦しみがある。神のうちには愛があると同様に苦しみがある。それは神自身を損なったり、神の何かを減らしたりする苦しみではなく、愛する者と一つになった苦しみ、息子と一つになった母親が息子のすべての状態を苦しむように、死の苦しみ、痛み、病気、悲惨、孤独、失望、罪など、すべて人間を痛めつけるものを、神は私たちのうちに、私たちのために、私たち以前に、私たち以上に担われると言えるほどなのである。「神が苦しみを許されるのだ」などと言うのを聞くと、私の心は煮えくり返る。否、否、神が苦しみを許されるなどということは断じてない。神は人間の苦しみを苦しまれる。それによって死に、それによって第一に打ちたたかれるのは神なのだ。悪があるなら、その第一の犠牲者は、まず神なのである。恥すべきスキャンダルが大きければ大きいほど、その目標にされるのは神であり、それは神の顔に、神の心にぶっつけられるのだ。なぜなら、もし人の心のうちに神の現存がなければ、悪はこれほど恐ろしい様相を帯びないであろう。私たちが、別に残酷な気持ちもなくダニをつぶしたとしても、流血の罪を犯したなどと懺悔しには行かない。しかし、もし人間を殺したなら、まったく別なことになるであろう。人間は創造に何かを付け加える者、創造に同意を与え得る者、掛け替えないものだからだ。人間は世界に新しいまなざしをもたらし、自分のうちに宇宙全体を含んでいるユニークな存在、掛け替えのない存在だからだ。私たち一人一人はユニークな者、掛け替えのない者、宇宙が新たな展望の中で、永遠の愛の面を輝かせるもととなるものだからだ。
 したがって、宇宙の中で神は愛、同情に満ちた愛、痛み、苦しみ、失望、孤独、死のあるところで、苦しみへの助けを拒む過酷なうつ病のあるところで、神は十字架に付けられた愛、常に犠牲となる愛なのである。
 神が犠牲者であればこそ、世はいまわしく、悪の手が最高の価値に届き得るからこそ、悪は人間の生活のうちで神を十字架に付けることができるのである。キリストのうちで、だれでも神を殺すことができる。なぜなら神は無防備な方なのだから。神のうちには、永遠の若さがあると同様に、幼子の姿がある。無限の弱さがある。
 悪への答えはキリストの十字架である。
 私の生涯中で、キリストの苦しみがともにあった困難なとき、苦悩に満ちたときほど、私のためになったときはなかった。「道行くすべての人よ、私の苦しみを見よ。」唯一の慰め、それは自分を乗り越えることにある。キリストがすべての被造物のうちに栄光を得られるまで、私たちの苦しみは二番目に置かれなければならない。
 私たちに可能な最大の勇気は、私たちの問題を二番目に置くことなのだ。私たちの失望の唯一の出口は他の人々のうちで神を慰めることである。


 もし、どうしても神の審判――神による人間の審判 ――を描かなければならないなら、地獄でたたきのめされているのろわれた人々にこぶしを振り上げる怒れるアポロ――これが、ミケランジェロがシスティナ聖堂に描いた審判者キリストだ――ではなく、むしろゴチック様式の大聖堂の彫刻が現しているもっとデリケートな姿、例えば、天使たちがご受難の責め道具を持って囲んでいる中で、キリストがその手の傷を見せながら、「私がなすべきことが、これ以上あったであろうか」と言っておられるような場面を思い描くほうが、どれほどふさわしいだろう。愛は彼ら罪人に手を差し伸べることを決してやめなかった。もしほんとうに彼らがその愛の手を拒んだのなら、それは神の過ちではない。そこにこそ、彼らの罪、彼らの不幸があるのだ。
 だから怒った審判者よりも、すべての被造物に、ご自分のあふれるほどの喜びをつねに与えようとしておられる神の永遠の愛に、思いを向けよう。
 最後に、正義を、「愛」の変わることのない誠実さとして理解しよう。そうすれば、ダンテが地獄の門で読んだ「私は第一の愛の業である」という言葉がもっとよく分かるであろう。
 天国とは、向こう側で取り立てる小切手ではない。神は墓の向こうの資本家ではない。天国とは、霊魂たちの永遠の愛の王国なのだ。
 地獄とは、神がその被造物を苦しめる罰ではない。それは人間が神を永遠に十字架に釘付ける場所である。地獄は、神がもはや私たちのうちにおられないときに、私たちの中にあるのだ。
 イエスのうちには、「はい」と「いいえ」はない。あるものは「はい」のみである。人間のすべての苦しみは、まずキリストの苦しみなのだ。神は人間と連帯しておられる。神はご自分が安全な場所にいて苦しむ人間を眺めておられる方ではない。神は第一にすべての苦しみ、すべての罪を負う方、私たちの傷によって最初に打たれる方なのである。
 地獄とは私たちのうちでの神の失敗である。
 愛する者はつねに愛するところから傷を負うのである。



沈黙を聴く―現代の神秘家モーリス・ズンデルの人と霊性
女子パウロ会
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奥村一郎著『祈り』(女子パウロ会)より

2009/11/16 21:52
 サルトル、それはほんとうに神を捨てた人、否定しきれた人であったろうか。それとも、しばしば人間が作りだす、こっけいな神の戯画を引き裂く憤りにふるえる手を虚空に広げて、名も知らぬ真実の神を呼ぶ苦悶の人であったのではなかろうか。わたしは、これに判断を下そうとは思わない。おそらくサルトル自身も、こう叫びながら、その心の奥深く執拗につきまとうばくぜんとした不安の意識をどうしようもないままにいたにちがいないであろう。
 サルトルの上記の『嘔吐』の一節を読んだとき、わたしは、そこに、トマスの神の存在の証明の第三にあげられている「偶有的存在から必然的存在へ」という論証が、そのまま裏返しになって最もなまなましい哲学的心理描写に移しかえられているようにしか思えなかった。神を否定する叫びのなかに、最も雄弁な神の証明、すなわち神を呼ぶ苦悶があることを、サルトルの心のなかに読みとることは、はたしてまちがっているであろうか。今ここで、わたしは「サルトルの神」について論じようとは思わない。ただ神から離れようとする遠心的意識に対して、そのまま裏表になっている神への求心性が、見えない力の見える苦悩となって現われるということを指摘すれば足りる。
 祈りとは、神を求める心であるならば、神を見失ったものの苦悶とは、それそのままに真実の祈りの心をたずねる苦悩とも言えよう。否、その苦悶それ自体が「裏返された祈り」、「反逆者の祈り」とでも言えるのではなかろうか。
 悪に強いものは、善にも強いと言われる。神への挑戦者は、ときにパウロのように、神の愛の「選みの器」となることがある。しかし、大部分の人は、幸か不幸か、神に逆らうのでもなければ、神の愛に狂うのでもない。おのが人生の軌道を忠実に見守っていこうとする、教養も徳もある多くの人々があり、そのなかには、まことに賞賛に値する世の聖賢と呼ばれるものさえもある。「……三十にして立ち、四十にして惑わず……七十にしておのが心の欲するところに従って、その矩(のり)を踰(こ)えない」人のことである(『論語』為政第二)。
 その人々は神を否定するのでもなく、祈る人々をけいべつするのでもない。さりとて自ら祭壇の前にひざまずくには、ごうまんであるというよりも、何か空虚なものしか感じないのである。神が神殿のなかや、祭壇の上にだけあるなどということは、子どもじみた芝居のように見える。神というものがあるならば、それはむしろ、カントのようにわたしの心のなかの道徳律であるというのが、その人たちの美しい信条である。澄みきった理性と、洗練された良識をもった自己に対する信頼が、ストア的な落ち着きさえも与えているその人々は、まことに、皮肉なしに尊敬に値する人々である。
 だが、そのような自己に対する確実性を信じている人々の額に、ときに説明のしようのない薄暗い影を感じとるのは、はたしてわたしの錯覚であろうか。「どのように生きなくてはならないか」ということをじゅうぶんに学んだその人々にとっても、「人生とは何であるか?」「わたしとは何であるか?」という自己に対する最も根底的な問いが未解決のまま残されているのである。その人々は、その問題に無知なのではない。否、その問いかけの危険性さえもよく知っているのである。底のないどろ沼のなかに足をすべらすまいという賢明さが、なにか不徹底な自己との妥協を余儀なくさせているということ、これがその人たちの額にかげる寂しさなのである。しばしばかれらは、人生の底深い哀しさをうたう詩人である。人知れぬ、また人に知られたくない、だがさりとて自分ではどうにもならない底知れぬ弱さを、かれらはうちに隠している。それは、ふとした思いがけないときに堪えがたい心のうずきとなって現われることがある。はだ寒い雨の日、ひとり家路を急ぐときに、あるいは、どんよりした灰色の空を電車の窓に見ているあいだに……外目にはなにも感じられない平凡な時の流れが、突如心の奥底の黒い暗礁に砕かれる。そんなとき自己に対する今までの、落ち着いた支配者のような自信が足元から崩れるように思える。だが、そのときすらも、かれらは「神よ」ということばを口にしようとは思わない。なぜなら、かれらはその聖なる寂しさが、人間のことばによって汚されることを恐れるからである。このかれらの心の傷からにじみ出る人知れぬ嘆き、わたしはそこに、人間の最も美しい永遠者へのあこがれを見たい。



祈り
女子パウロ会
奥村 一郎

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ブラックフルフ・ジョーンズ&ジーナ・ジョーンズ著『ネイティブ・アメリカン 聖なる言葉』大和書房より

2009/10/30 01:10
子供たちは
私たちの未来を織る糸。
彼らを敬え。
彼らを傷つけるようなことを
してはならない。

万物の子供と調和して生きるなら、
空は澄みわたり、大地は揺るぎない。
万物は満足し、栄え、
聖なる環はよみがえる。
内なる子供が虐げられると、
空は濁り、大地は不毛になる。
バランスは失われ、
生きものは永久に消え去る。

あなたの最大の宝は内なる子供だ。
年をとっても、
その子供を育み続けなさい。
この子供は永遠にあなたの一部。
内なる子供はあなたに
あなたが願ってやまない自由を、
あなたが欲する自発性を、
あなたが求める驚きを、与えてくれる。
これらが必要になったら、東の方角へ行きなさい。
あなたの内なる子供とずっとつながっていなさい。

子供の目でものを見よ、
そうすれば人生の魅力がわかる。

子供たちは私たちの富。
いろんな角度から子供たちを眺めてごらんなさい、
美しい石をあちこちから眺めてみるように。
彼らに子供でいる自由を許しておやりなさい、
なおかつ彼らを制限と境界線で祝福しておやりなさい。
それが彼らの殻を育てるのだから。




ネイティブ・アメリカン聖なる言葉―宇宙の響きを聴け
大和書房
ロバート・ブラックウルフ ジョーンズ

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オマル・ハイヤーム作小川亮作訳『ルバイヤート』岩波文庫より

2009/10/21 00:06
35

若き日の絵巻は早も閉じてしまった、
命の春はいつの間にか暮れてしまった。
青春という命の季節は、いつ来て、
いつ去るともなしに、過ぎてしまった。


105

戸惑うわれらをのせてはめぐる宇宙は、
たとえてみれば幻の走馬燈だ。
日の燈火を中にしてめぐるは空の輪台、
われらはその上を走りすぎる影絵だ。


143

いつまで一生をうぬぼれておれよう、
有る無しの論議になどふけっておれよう?
酒を飲め、こう悲しみの多い人生は
眠るか酔うかしてすごしたがよかろう!



ルバイヤート (岩波文庫 赤 783-1)
岩波書店
オマル・ハイヤーム

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般若心経現代語訳 中村元・紀野一義訳註 『般若心経・金剛般若経』 岩波文庫より

2009/10/18 00:00
 全知者である覚った人に礼したてまつる。
 求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。

 シャーリプトラよ、
 この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
 実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
 (このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
 これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
 シャーリプトラよ。
 この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
 生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
 それゆえに、シャーリプトラよ、
 実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
 (さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
 過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
 それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
  (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)
ここに、智慧の完成の心が終った。




般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)
岩波書店
中村 元

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喜べ、単純な心よ(ブラザー・ロジェ) 『祈り −信頼の源へ−』 サンパウロ刊より

2009/10/14 23:54
 テゼのブラザーたちは、バングラデシュで、もう何年にもわたって、もっとも貧しい人びとと生活を共にしています。その一人が、次のように書いてきました。
「ここでの生活は、今度のサイクロンと洪水で、ひどい影響を受けました。近所に住む人びとが、わたしたちにこう尋ねてきます。『なぜ、こんな目にあうのか。わたしたちは、神に対して、そんなに罪を犯したのだろうか』」。
 人間の心には、神に対するひそかな恐れが宿っていることがあります。「神は、わたしを罰するだろう」という恐れです。わたしが代父になっている少女マリア・ソナリーは、彼女の養母が入院していた五歳のある日、涙を流しながらわたしのところにやって来て、こう言いました。「ママが病気なの。わたしが悪かっだの。強く抱きしめすぎたの」。人生のこれほど早い時期から宿る、このような罪責感は、どこから来るのでしょうか。
 「罰を下す神」という思いは、信仰にとって最大の妨げの一つです。神を、「善悪の頂点に立って人間を裁く方」と考えてしまいそうなわたしたちに、聖ヨハネは、炎のようなことばで、次のように告げています。「神は愛です。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださったのです。たがいに愛し合おうではありませんか。神がまず、わたしたちを愛してくださったからです」。
 あなた自身を神の愛の中にゆだねていくこと、ここから、すべてのことが始まるのです。しかし、これはそれほど簡単なことではありません。キリスト者の中に、「わたしが神に愛されている」ということをなかなか信じられない人がいるのは、なぜでしょうか。彼らは自らに言います。「神は人びとを愛している。でも、わたしではない」と。
 人間はしばしば、刺のような心をもつものです。神は、そういうわたしたちを、同情の衣で包んでくださいます。神は、わたしたちの人生という美しい布地を、神のゆるしの糸によって織られるのです。神は、キリストの内にわたしたちの過去を葬り、わたしたちの未来をも、すでに整えてくださっているのです。
 あなたが神を愛する前に、まず、神があなたを愛しておられます。あなたはこう思うかもしれません。「わたしは神を待ってはいない」と。しかし、神はあなたを待っておられるのです。あなたが、「わたしは価値のない者だ」と言うとき、神は放蕩息子に与えられた指輪を、あなたの指にはめるのです。このようにして、福音はすべてをくつがえしてゆくのです。
 わたしたちすべてが放蕩息子です。あなたは、捕らわれの深みから、神のほうへ心と体を向けます。そのとき、あの刺のような心が、わたしたちから消えてゆくのです。神のゆるしによって、あなたの中から歌がわき上がるのです。そして、神のゆるしを黙想することは、聖霊に自らをゆだねた単純素朴な心の中にあって、輝ける優しさとなるのです。
 ある日、わたしは、マザー・テレサとともに、ハンセン病の病院を訪ねました。そこで、一人の人が衰えた両腕をかかげて、次のように歌い出すのを聞いたのでした。「神は、わたしに罰を科したのではない。わたしの病を通して、神はわたしを訪れてくださったのだ。神をほめたたえよう」。苦悩の中で、彼もまた、苦しみが神からもたらされたものではないことを直観したのです。
 神が悪を創造したのではありません。しかし、神は大きな冒険を引き受けられたのです。神は人間に、神とともに世界を創造するように、と望まれたのです。人間を、一方的に服従するロボットのようにすることを望まず、あえて彼らに自由をお与えになったのです。一人ひとりが自分の人生の方向を選びとってゆく自由。愛する自由。愛さない自由。

 キリストは、だれかが苦悩しているとき、何もしないで立っておられるのではありません。死からよみがえられたキリストは、一人ひとりの苦しみとともに歩いてゆきます。そこで神が、共に苦しみ、痛みを分かち合うのです。キリストが苦しみ痛むのです。そしてキリストは、その御名によって、わたしたちに、すべての不条理な試練を生きる人びとの苦悩を共に担う道を整えられます。罪なき人びとの悲嘆を和らげるようにと、わたしたちを招いているのです。
 人間の苦悩は神がもたらしたものではないのですが、その試練によって、自分が新たに清められたことを発見した人もいます。これを理解するには、成熟と、内なる砂漠を横切ることが求められます。一つの例を紹介します。
 一九九一年の二月、わたしは、テゼのブラザーたちが数か月にわたって準備を進めていた青年大会に参加するため、フィリピンに滞在していました。そこで、アウロラ・アキノという老婦人を訪ねました。その何年も前のことですが、彼女の息子ベニーニョは七年間を牢で過ごし、そして国外追放されたのでした。やっと彼が祖国に戻ってこられるようになったとき、彼は飛行機から降りるところで暗殺されました。そのときの新聞に出ていたアウロラ・アキノさんの写真を、わたしは覚えています。それは、深い悲しみにあふれた母親の顔でした。
 わたしは、八一歳になったこのアウロラ・アキノさんと話をしていて、気づいたのです。彼女の心には何の刺のようなものも見られないということに。さらに彼女は、驚くべきことを語ったのでした。「試練はわたしたちを清める」と。わたしは、このような大いなる無私の心を彼女の中に見いだしたことには驚きませんでした。なぜなら、彼女のような人こそ、次のように言うことができる豊かな老人の一人だからです。「愛を知っている人にとっても、深い苦しみを知っている人にとっても、人生は、そして人の命は、清らかな美しさに満ちている」。
 今、あなたは、いろんな出来事のショックから、大きな試練や破壊された関係の中に置かれているかもしれません。あるいは、軽蔑され、侮辱され、あなたの中にあるもっとも純粋なあこがれは、ゆがめられてしまっているかもしれません。
 魂の隠れた傷をいやすのは、貧しく謙遜な祈りです。そして、そこで人間の苦しみの神秘が変容させられてゆきます。生ける神の息吹は、貧しく弱いところに注がれます。神は、命の水を、このようなわたしたちの傷のただ中にわき上がらせるのです。神を通して、涙の谷は命の泉となるのです。
 喜べ、単純素朴な心よ! その心の平和から、福音の喜びが自然にわき上がってくるのです。


すべての人の神よ
あなたは わたしたち一人ひとりのうちに
  消し去ることのできない贈り物を与えられました
  それは あなたの現存の鏡となる豊かさ
あなたは 聖霊によって
一人ひとりのうちに あなたの愛の意志を刻みつけられました
  石の板の上にではなく
  わたしたちの魂の深みに刻みつけられたのです
そして 内なる平和を通して
あなたは わたしたちを招いておられます
  まわりの人びとのために
  人生を 人の命を すばらしいものにするようにと

■テゼ共同体のミサ 男の子の隣にいるおじいさんがブラザー・ロジェです■


■ブラザー・ロジェの葬儀の様子 彼は2005年8月16日、夕の祈りの最中に精神を病んだ女性によって殺害されました。享年90歳でした■




祈り―信頼の源へ
中央出版社
マザー・テレサ

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神との対話祈りは神と ...
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『夜こそわが耀き ニコラ・バレの生涯』春秋社刊より

2009/10/05 23:35
 あなた方の忍耐を失わせるものは次の三つでしょうか。まず、成功しなかったときにあなた方を襲う失望感。次に、成功しないのは相手が悪い、こんな者を相手にしても無駄だという結論を出してしまうこと。最後に、こんな者を相手にして時間を無駄にするのを神は望まれまい。もっと反応のある人を相手にしたほうがよいという霊的な理由をみつけること。そして、自分のあれだけの献身に対して一向に成果があがらないことに腹を立て、短気にも、その仕事を辞めて、他のところに行こうとするのです。

 こういう場合には、ちょっと待ってください。そして、あなたをいらいらさせる心の動きを捨ててごらんなさい。そうすると、不思議にも、予期しなかった成果が見え始め、頑固な心が打ち砕かれ、むずかしい人が救われるというようなことになるものなのです。

 私はたびたび申しました。多くの人は神に仕えたいが、神が自分を使うことは望まないと。あなた方はどうか、物書きの手の中にあるペンのようでいてください。ついでによく覚えておいてください。ペンはよく書けるように、たびたび切られ、削られることを!

 あなた方が、もしこのように神のみ手の中に身をおき、神のみ業のために神のみ手に握られたままになっているなら、あなた方は、活動生活と観想生活を統合して生きることができるでしょう。


夜こそわが耀き―ニコラ・バレの生涯
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ジョン・オドノヒュウ著『アナム・カラ − ケルトの知恵』角川21世紀叢書より

2009/09/24 22:51
 祈りとは、人々を癒し、解放し、祝福する豊潤な愛の光を放つ行為である。人は身内の愛を、瀬戸際に追いつめられた人々と分け合わなくてはいけない。ケルトの伝承には、自身の善を人に分け与え、幸せを人と分かち合うなら、万倍にも報われるという考え方がある。愛の王国に争いはない。我欲も支配欲もそこにはない。愛は与えるほどに豊かに恵まれる。それで思い出すのは、隠された宇宙のリズムは銀河や惑星を動かす愛のリズムである、と言ったダンテの識見である。愛は人生体験の根元であり、中心であり、運命である。



友愛頌


願わくはあなたが良友に恵まれますことを。

あなたは自身の良友でありますように。

あなたが愛と温もりと、共感の赦しのある

魂の地に旅することができますように。

このことが、どうか、あなたを変え、

あなたの内の悲観、無情、寒心を払いますように。

あなたが真情と誠心と好意に満ちた親愛に迎えられますように。

友愛を宝として、新雪をつくし、求められる人でありますように。

祝福と励ましと光、旅に必要なすべてを友から与えられますように。

どうか、あなたが孤立しませんように。

常にアナム・カラの親愛に抱かれて安らぎの家に暮らせますように。


ぼんくら注:アナム・カラとは、深奥の自己と、心の在り様、心情を語り合える魂の友を指す。





アナム・カラ―ケルトの知恵 (角川21世紀叢書)
角川書店
ジョン オドノヒュウ

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生存競争について 神谷美恵子著『人間をみつめて』みすず書房刊より

2009/09/22 23:11
 人間が生きて行く上で、避けられないのはなんらかの意味での生存競争である。これも社会体制いかんによってちがうだろうし、またのんびりと皆が共存共栄できるようなところが、どこか地球上に残っているかも知れない。
 しかし、たとえもし、バナナややしの実などがゆたかに実っていて、それさえもいで食べていれば、あとは仕事もせずにのらくらしていられるようなところがあったとしても、厳密な意味でそこに生存競争がないとはいえないと思う。なぜならば、そういうところでも人間は害虫や蛇などを殺すだろう。木をも倒すかも知れない。ところが動植物もまた「いのち」の持主なのだ。
 人類がここまで地球上にはびこることができたのは、他の生物に対する闘いに勝ってきたからである。ある動物学者の説によると、人類よりももっと生命力の強い生物はネズミだという。地球がネズミによって征服されないで済んでいるのは、人類がその駆除につとめてきたからなのだという。
 さらに人間というものをみつめてみると、他の生物に対してだけでなく、同類の人間に対しても加害者として立つことが多い。人種差別、階級差別、戦争などはその大きな社会的あらわれだが、そうでなくとも、私たちの心の中には、他人に対する親愛の念とともに、いつもひそかな憎しみやねたたみがひそんでいるらしい。それが行動の上に出てしまうこともある。その上、激烈な生存競争も私たちの社会には免れない。入学試験、卒業試験、就職試験、またよい配偶者をつかむチャンスなど、どれをとってみても、幸運をつかんだ者は他人をけおとしてつかむわけである。世の中で幸運といわれるものに恵まれた人のかげにはいつでも不運に泣く人が存在する、と言っても言いすぎではないであろう。
 このことを、私は長島愛生園の人たちをみるたびに思わせられる。ただ単に公衆衛生的に言ってみても、あそこにいる患者さんの大部分は、まだらいを治すよい薬がみつからない時代にあの病気に感染して、苦しんできたのである。光田健輔先生が彼らを強制隔離されたのには、当時としては、彼らの生活を守るというたいせつな意味があったが、一つには日本の社会を感染から守るという意味も大きかったことは明白である。今でこそらいも治しやすくなり、入園者の8割〔2004年現在、入園者全て〕は、他の人に病気を感染させる恐れのない「無菌」状態になっているが、少なくとも過去において私たちが感染しないですんだことのかげには、あの人たちの生涯の犠牲がひそんでいるともいえるのだ。
 その他の種類の世の幸不幸、運不運についても、少しよく考えてみると、なぜある人が不運にみまわれ、なぜこちらがそれを免れたのか、ということについて、ほんとうの説明はない。これも広い意味での生存競争にはいるのではないだろうか。
 生存競争とは生物界一般の法則で、「適者生存」の原理はなんらかのかたちで人間の生活につきまとわざるをえない。それは体力や才能とかの点で恵まれた人が栄えるというかたちだけでなく、「運」というわけのわからないかたちでも、人びとの人生行路を変えて行く。したがって努力とかよい心がけだけで人間が幸福になれるとは限らない。
 とすれば、なんらかの意味で幸運に恵まれた人、生存競争に勝った人は、不幸な人、不運な人に対して負い目を持っているのだと思う。どうしてこちらでなくてあちらが不幸や不運にみまわれているのか。この疑問がつねに心に生じるのが当然であろう。
 自分だけ、自分の家族だけが幸せになればよい、という考えだけでは、どう考えても片手おちだと思う。だいいち、どこに自分や自分の家族が災難にみまわれないという保証があろうか。いのちのもろさ、はかなさにおいて、私たち人間はみな結ばれているのだ。社会福祉の根本の発想は、こうした素朴な認識にあるのではなかろうか。もう五年も前になるが、久しぶりで英国へ行ったとき、精神病院やらい病院を見学して、つくづくこのことを考えさせられた。
 斜陽といわれるこの国で、鉄道などは古色蒼然たるものであったけれども、保健省の役人たちは意欲と誇りにみちていた。まだいろいろと問題はあるにせよ、戦後この国では医療全国営制度に切りかわっているのであった。新幹線を走らせるのと、どちらがたいせつであろうか。新幹線を走らせるだけの知力や力や金を、日本人はせめて同胞の福祉のためだけにでもなぜもっと使わないのか。
 ロンドン郊外のある精神病院を見学したとき、こうした問いが胸をついてわき出るのをどうしようもなかった。この病院は七百床ほどで、二十五万人住む行政区域で発生する精神障害に対して全責任を負っていた。広々した芝生、レクリエーションや作業療法のための設備と人員、図書室の完備など、感心することばかり。しかしちょっとショックだったのは、じゅうたんを敷きつめた大広間を次々と歩いて行くと、どこへ行っても三、四十人のしらがの老人が、うつろな顔をして円形に並べた肘掛けいすにずらりと腰かけている光景であった。八百人の入院患者の中で七五パーセントまでが老人性精神障害者であるという。
 これが現代のうばすて山か ― そうつぶやく心に、何年か前に学生たちと行った尼崎市の老人調査の時見たことがひらめいた。老人ホームにも入れず、商店の二階の暗い三畳の間などに、ひとりぐらしをする貧しい老人の何と多かったことか。彼らは病むと、医療にも食事にもこと欠くのであった。
 この精神病院の院長さんは、相当の年配であったが、一日の忙しいしごとがすむと、これから往診に行くのだと言って、「一緒に行きませんか」とさそって下さった。
 先生自身、車を運転して町のはずれのアパートメント・ハウスにのりつけた。もう夕暮れで足もともはっきりしないのに、玄関には門灯もつかず、中をのぞいても真っくらであった。ベルを鳴らすと、だいぶ経って、二階から蒼白い、やせた主婦が下りてきた。料金が払えないので門灯など消しているのだという。
 二階のへやには明るい灯がつき、二人の幼児がいたが、若い母親は先生に泣きじゃくりながら悩みを訴えている。強度のノイローゼらしい。先生の態度はあくまでも暖かだった。いろいろと慰め、励ました上、やがて帰宅してきた夫に言った。
「しばらく病院で奥さんをあずかりましょう。その間病院のほうから、子供さんたちのめんどうや家事をみる人を派遣します」
 夫はマーケットに働く人で、この一家はかなり貧しそうにみえたが、この往診も無料。入院費その他もみな国費から出るという。私は国税の配分ということを考えずにはいられなかった。それはけっきょく、「何がたいせつか」の考えかたにつながると思う。

 「経済大国」になってみても、その国に住む人や、もっと貧しい国の人びとが、病苦や労苦や生活苦に悩んでいるのを放っておくようでは、いばっても何になろう。弱者の生命をたいせつにすることは、適者生存の法則をやぶることであるかも知れない。しかし人間はもうこの辺で、「単なる生物」の域を脱して、精神的存在としての独創性と知恵とをはたらかすべきではなかろうか。生存競争の勝利者となった者にこそ、この責任が重く課せられていると思われてならない。

〔ぼんくら注: 神谷氏がこの文章を書いたのは昭和46年(1971)です〕


人間をみつめて (神谷美恵子コレクション)
みすず書房
神谷 美恵子

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シモーヌ・ド・ボーヴォワール著『おだやかな死』紀伊国屋書店刊より

2009/09/20 23:02
 「年に不足はない。」老人の悲しみ。彼らの流刑。大部分のものはこの不足のないという年を告げる鐘が鳴ったことを考えない。私もまた、自分の母親のことでさえ、この紋切型を利用した。七十歳以上の親なり祖父母なりをなくしたものが心から泣くことができると私には理解できなかった。母を失ったという理由で打ちひしがれている五十歳の同性に出逢ったら、私はそのひとを神経衰弱ときめつけたであろう。我らはすべて死すべきもの。八十と言えば、死人になる十分の資格のある年ではないか……。
 そうではなかった。ひとは生まれたから死ぬのでもなく、生き終わったから、年をとったから死ぬのでもない。ひとは何かで死ぬ。母が年から言って死期は遠くないと私が心得ていることが怖ろしい衝撃を緩和しはしなかった。悪性腫瘍ができていたという意外な事実の発見。癌、血栓、肺の充血、すべて空中でエンジンがとまったのと同じくらい、きびしいこと、思いがけぬことである。病床に釘づけになり、死に瀕していながら、刻々の時間の無限の価値を確認した時、母は私を楽天主義に誘った。しかしまた、母の空しい生への執着が日常茶飯の安全を保証したカーテンを引き裂いた。自然死は存在しない。人間の身におこるいかなることも自然ではない。彼の現存が初めて世界を問題にするのだから。ひとはすべて死すべきもの。しかし、ひとりひとりの人間にとって、その死は事故である。たとえ、彼がそれを知り、それに同意を与えていても、それは不当な暴力である。


おだやかな死
紀伊國屋書店
シモーヌ・ド ボーヴォワール

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マルクス・アウレリウス著『自省録』岩波文庫より

2009/09/20 02:23
 「カエサル的(ぼんくら注:「皇帝のような」の意)」にならぬよう、その色に染まらぬよう注意せよ。なぜならそれはよく起こることなのだから。単純な、善良な、純粋な、品位のある、飾り気のない人間。正義の友であり、神を敬い、好意に満ち、愛情に富み、自己の義務を雄々しく行う人間。そういう人間に自己を保て。哲学が君を作りあげようとしたその通りの人間であり続けるように努力せよ。神々を畏れ、人を助けよ。人生は短い。地上生活の唯一の収穫は、敬虔な態度と社会を益する行動である。
 あらゆることにおいてアントーニーヌス(ぼんくら注:マルクス・アウレリウスの義父にして先帝)の弟子としてふるまえ。理性に適う行動に対する彼のはりつめた努力、あらゆる場合におけるむらのない心情、敬虔、彼の顔の穏やかなこと、優しさ、空しき名誉に対する軽蔑、物事を正しく把握しようとする熱意 ― これらのものを思え。また彼が何事をも先ずよく検討し、はっきり理解せずには手から放さなかったこと。自分を不当に非難する者に対して、自分のほうから非難して返さずこれを忍耐したこと。何事にも慌てなかったこと。誹謗に耳を傾けなかったこと。精密に人の性質や行動を調べたこと。やかまし屋でもなく、卑怯者でもなく、猜疑家でもなく、詭弁家でもなかったこと。住居、寝床、衣服、食物、召使い等については、僅かのことで満足したこと。労働を愛し気が長かったこと。また彼は簡素な食事を摂っていたので、決まった時間以外に食物の残渣を排泄する必要がなく、そのおかげで夜まで仕事をやり続けることができた。友人たちに対しては、忠実で常に変わることがなかった。彼の意見に公然と反対する者に対しては忍耐し、もっと良いことを教えてくれる者があれば喜んだ。また神を畏れつつも迷信に陥ることがなかった。以上のことを思い、君もかれに倣って、いつ最後の時がやってきても良心が安らかであるようにしておけ。


自省録 (岩波文庫)
岩波書店
マルクスアウレーリウス

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アメリカ・インディアンの祈り (藤永茂著『朝日選書21 アメリカインディアン悲史』朝日新聞社刊より)

2009/09/18 23:42
おお、大いなる精霊よ、その声を、私は風の中に聞き、

その息吹は、この世界のすべてにいのちを与える、

大いなる精霊よ、私の祈りをおきき下さい。

私はあなたのまえに一人の人間として、あなたの多くの子供たちの一人として立っています。

私は小さく弱い。私にはあなたの強さと知恵が必要です。

どうか私を美の中にあゆましめ、赤々と焼ける夕空をいつまでも見守らせてください。

私の手が、あなたの創ったすべてのものを大切にし、

私の耳が、あなたの声をききもらさぬようにさせて下さい。

あなたが私たちにお教えになったことども、

一枚の木の葉、一つの岩の下にもあなたがそっとひめた教訓の数々を知ることができるように、 

私を賢明にして下さい。

おお、私の創造者よ、私は強くありたい。

私の仲間にうちかつためにではなく、

私の最大の敵、私自身とたたかうことができるように。

汚れのない手と、まっすぐなまなざしをもっていつでもあなたのみもとに行くことが出来るように、

やがて、私のいのちがあの夕焼けの空の色のように消えるとき、

私のたましいが、なんの恥じ入るところもなく、

あなたのみもとに行くことが出来るようにさせて下さい。




アメリカ・インディアン悲史 (朝日選書 21)
朝日新聞出版
藤永 茂

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サクリファイス (アンドレイ・タルコフスキー著『映像のポエジア』キネマ旬報社より)

2009/09/16 22:57
 ところで、われわれの生活が幸福のためにつくられたといったのはだれだったろうか。人間にとってそれよりも重要なものはないだろうか。(ただ幸福という概念の意味を変えることができたならばいいのだが、それは不可能なのだ。) これを唯物論者に説明してみるがいい。東洋においても、ここ西洋においても、理解されずに笑われるだけだ。極東についてはここでは問題にしない。




映像のポエジア―刻印された時間
キネマ旬報社
アンドレイ・タルコフスキー

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苦しみ (「マザー・テレサのことば 神さまへのおくりもの」 女子パウロ会)

2009/09/16 00:17
 もし貧しい人びとが飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そしてわたしが、与えなかったからです。神の愛の手の道具となって、パンを、服を、その人たちに差し出さなかったからです。キリストが、飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを捜し求める人などのいたましい姿に身をやつして、もう一度こられたのに、わたしたちがキリストだと気づかなかったからなのです。
 神は飢えている人、病める人、裸の人、家のない人のなかにおられます。飢えといってもパンがないためだけでなく、愛、思いやり、だれかの"あなた"でありたいことの飢えなのです。また裸といっても服がないだけのことではなく、見ず知らずという理由だけで、優しい心づかいを示してもらえない意味での裸であり、家がないというのは、石で造った家だけでなく、自分を招き、受け入れてくれる人を持たないゆえの家なしなのです。

マザー・テレサのことば―神さまへのおくりもの
女子パウロ会
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マザー・テレサの遺言 [DVD]
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